2012年 11月 04日
玉縄城築城五百年祭・会場警備。【鎌倉ガーディアンズ】 |
(角田晶生・鎌倉ガーディアンズ 会員)
平成24年11月4日(日)、小田原の出城として北条早雲公によって永正10(西暦1513)年に築かれ、三浦半島は元より、坂東一円に睨みを効かせ、一度として落城の憂き目を見ることなく(武田信玄、上杉謙信ですら攻略を諦めたと伝わります)その使命を全うした玉縄城(たまなわじょう)の築城五百年祭が執り行われる一環として、歴代玉縄城主の菩提寺である龍寶寺(りゅうほうじ)・玉縄城跡のある清泉女学院の警備に、市民による防犯ボランティア「鎌倉ガーディアンズ」の一員として当たりました。
龍寳寺 山門。 posted by (C)角田晶生
玉縄城築城五百年祭ポスター。 posted by (C)角田晶生
警備中(龍寳寺)。 posted by (C)角田晶生
玉縄城 埋もれた古城
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/Kanagawa/Tamanawa/
玉縄城址まちづくり会議
http://www48.tok2.com/home/tamanawajyo/
午前中の龍寶寺では、歴代城主の威徳を偲ぶ法要とミニコンサート、午後の清泉女学院では、玉縄城築城五百年記念式典とコンサートが実施、主催者のコメントでは「予想以上の大盛況だった」との事で、恙なく終えることが出来ました。
玉縄城築城五百年祭。 posted by (C)角田晶生
ゆるキャラ「玉竜くん」。 posted by (C)角田晶生
警備中(清泉女学院)。 posted by (C)角田晶生
ちなみに、玉縄城の歴代城主は、以下の通りです。
初代城主:北条氏時
(ほうじょう うじとき。生年不詳-享禄4・1531年没)
北条早雲の次男(推定)。房州(現:千葉県南部)の里見義豊が鎌倉に侵攻して来た際、これを戸部川(現:柏尾川)で迎え撃ち、撃退している。若くして亡くなり、子供がいなかった為、その死後は甥(兄・氏綱の三男)である為昌が玉縄城主を継いだ。
二代目城主:北条為昌
(ほうじょう ためまさ。永正17・1520年生-天文11・1542年没)
叔父・氏時の死により、12歳で玉縄城主を継ぐ。天文年間の当初、鶴岡八幡宮の再建をはじめ、寺社関連の史料に度々登場することから、信仰心に篤かったと思われるが、天文8年くらいから名前が見えなくなり(病床にあったものと推測)、23歳の若さで亡くなる。
三代目城主:北条綱成
(ほうじょう つなしげ。永正12・1515年生-天正15・1587年没)
父は今川家臣の福島正成とされ、大永元・1521年に一族が原虎胤(武田軍)の侵攻を受け(飯田河原の戦い。父はじめ一族の多くが討死)、北条氏綱の元へ身を寄せた時、氏綱に気に入られて娘婿となり、自分の「綱」と父の「成」を合わせた「綱成」の名を授かる。当初は為昌の後見役であったが後に養子となり、三代目玉縄城主を継ぐ。
武勇に秀で、北条「五色備(ごしょくぞなえ。軍を五色に分けた)」では「黄備(きぞなえ)」を担当。常に朽葉(くちば)色に染め上げた八幡大菩薩の旗印を背負って戦ったため「地黄八幡」の異名をとり、上杉・武田・里見を相手に渡り合った一方、外交方面にも才能を発揮する、文武両道であった。
四代目城主:北条氏繁
(ほうじょう うじしげ。天文5・1536年生-天正6・1578年没)
綱成の嫡男。元気2・1571年、父の隠居によって玉縄城主を継ぐ。父に劣らぬ武勇を誇り、永禄4・1561年に上杉謙信、永禄12・1569年に武田信玄が玉縄城を攻めた時、いずれも守り抜いている。主君・北条氏康からの信任も篤く、下総(しもうさ。現:千葉県北部)方面の攻略を任されていたが、佐竹氏との戦い(飯沼城)にて戦死。父譲りの外交能力の他、画家としての素養も知られ、『鷹図(個人蔵)』などの作品を遺している。
五代目城主:北条氏舜
(ほうじょう うじとし。生年不詳-天正9・1581年没)
氏繁の長男。父の死後、玉縄城主を継ぐ。ほとんど記録が残っておらず、父の生前(病中)の天正5・1577年に鬼怒川へ遠征したり(対 那須資晴・宇都宮広綱・佐竹義重 戦)、所領内で鳥の捕獲を禁じる法度を公布したことくらいしか逸話が残されていない。
六代目(末代)城主:北条氏勝
(ほうじょう うじかつ。永禄2・1559年生-慶長16・1611年没)
氏繁の次男。兄の死後、玉縄城主を継ぐ。甲斐国(現:山梨県)や下野国(現:栃木県)を歴戦。天正18・1590年の豊臣秀吉による小田原攻めでは伊豆国(現:静岡県伊豆半島)の山中城に籠城するが、あえなく陥落。自害を図るも弟たち(氏成、繁広)の諌めによって捲土重来を図るべく、本拠地である玉縄城に立て籠もる。程なく徳川軍によって包囲され、家康の家臣である松下三郎左衛門(まつした さぶろうざえもん)とその一族である龍寶寺の住職の説得によって降伏。玉縄城を明け渡した後は、徳川家に仕え、下総岩富一万石の領主に封ぜられ(下総岩富藩の祖)、領内の整備や関ヶ原の合戦において功績を上げた。
その後:北条氏重
(ほうじょう うじしげ。文禄4・1595年生-万治元・1658年没)
保科正直(ほしな まさなお)の四男で、氏勝の養子となる。徳川家康の甥(母は家康の異母妹・多劫姫)、大岡忠相(いわゆる大岡越前)の外祖父にあたる。下総岩富藩(一万石)を継いだ後、下野富田藩、遠江(とおとうみ。現:静岡県西部)久野藩、下総関宿藩、駿河(するが。現:静岡県東部)田中藩、遠江掛川藩と転封(てんぽう。領地を変わること)を繰り返し、最終的には掛川藩三万石の大名に成長したものの、五人の子供が全員女子であったため、跡継ぎが絶えたため氏重の死後、改易(かいえき。領地を没収されること)となり、玉縄北条氏は断絶した。
が、氏勝の弟でその養子となっていた繁広(しげひろ。天正4・1576年生-慶長17・1612年)の家系は、その後も旗本として存続した。当初、玉縄落城後に、氏勝と繁広はそれぞれ徳川家に仕えていたが、氏勝に子がいないため、繁広が氏勝に請われてその養子となり、氏勝の跡(下総岩富藩)を継ごうとすると、繁広を快く思わない家臣たちが氏重を養子に迎えて繁広を追い出してしまい、これに激怒した繁広は徳川秀忠にその理不尽を訴え出るも、程なく急死してしまう。その事情を知って不憫に思った家康が、当時4歳であった繁広の嫡男・氏長(うじなが。慶長4・1609年生-寛文10・1670年没)を500俵取の旗本として召抱えた。
その後、氏長は甲州流軍学を修め、北条流兵法の祖となった他、西洋の測量術によって日本の地図技術を改革し、更にその子・氏平(うじひら。寛永14・1637年生-宝永元・1704年年没)は……
北条綱成コスプレ。 posted by (C)角田晶生
……と、いい加減この辺にしておきます。
好きな事になると、どうしてもやめられなくなってしまいますね。
調べるのが楽しくて、どっちが本題か忘れかけてしまいました。
閑話休題(かんわきゅうだい。話を元に戻します)、玉縄城築城五百年祭のイベントは、次回は11月10日(土)、武者行列などのパレードが玉縄地域で実施される予定ですから、奮ってご見学いただけましたら幸いです。
休憩中。 posted by (C)角田晶生
平成24年11月4日(日)、小田原の出城として北条早雲公によって永正10(西暦1513)年に築かれ、三浦半島は元より、坂東一円に睨みを効かせ、一度として落城の憂き目を見ることなく(武田信玄、上杉謙信ですら攻略を諦めたと伝わります)その使命を全うした玉縄城(たまなわじょう)の築城五百年祭が執り行われる一環として、歴代玉縄城主の菩提寺である龍寶寺(りゅうほうじ)・玉縄城跡のある清泉女学院の警備に、市民による防犯ボランティア「鎌倉ガーディアンズ」の一員として当たりました。
龍寳寺 山門。 posted by (C)角田晶生
玉縄城築城五百年祭ポスター。 posted by (C)角田晶生
警備中(龍寳寺)。 posted by (C)角田晶生
玉縄城 埋もれた古城
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Kantou/Kanagawa/Tamanawa/
玉縄城址まちづくり会議
http://www48.tok2.com/home/tamanawajyo/
午前中の龍寶寺では、歴代城主の威徳を偲ぶ法要とミニコンサート、午後の清泉女学院では、玉縄城築城五百年記念式典とコンサートが実施、主催者のコメントでは「予想以上の大盛況だった」との事で、恙なく終えることが出来ました。
玉縄城築城五百年祭。 posted by (C)角田晶生
ゆるキャラ「玉竜くん」。 posted by (C)角田晶生
警備中(清泉女学院)。 posted by (C)角田晶生
ちなみに、玉縄城の歴代城主は、以下の通りです。
初代城主:北条氏時
(ほうじょう うじとき。生年不詳-享禄4・1531年没)
北条早雲の次男(推定)。房州(現:千葉県南部)の里見義豊が鎌倉に侵攻して来た際、これを戸部川(現:柏尾川)で迎え撃ち、撃退している。若くして亡くなり、子供がいなかった為、その死後は甥(兄・氏綱の三男)である為昌が玉縄城主を継いだ。
二代目城主:北条為昌
(ほうじょう ためまさ。永正17・1520年生-天文11・1542年没)
叔父・氏時の死により、12歳で玉縄城主を継ぐ。天文年間の当初、鶴岡八幡宮の再建をはじめ、寺社関連の史料に度々登場することから、信仰心に篤かったと思われるが、天文8年くらいから名前が見えなくなり(病床にあったものと推測)、23歳の若さで亡くなる。
三代目城主:北条綱成
(ほうじょう つなしげ。永正12・1515年生-天正15・1587年没)
父は今川家臣の福島正成とされ、大永元・1521年に一族が原虎胤(武田軍)の侵攻を受け(飯田河原の戦い。父はじめ一族の多くが討死)、北条氏綱の元へ身を寄せた時、氏綱に気に入られて娘婿となり、自分の「綱」と父の「成」を合わせた「綱成」の名を授かる。当初は為昌の後見役であったが後に養子となり、三代目玉縄城主を継ぐ。
武勇に秀で、北条「五色備(ごしょくぞなえ。軍を五色に分けた)」では「黄備(きぞなえ)」を担当。常に朽葉(くちば)色に染め上げた八幡大菩薩の旗印を背負って戦ったため「地黄八幡」の異名をとり、上杉・武田・里見を相手に渡り合った一方、外交方面にも才能を発揮する、文武両道であった。
四代目城主:北条氏繁
(ほうじょう うじしげ。天文5・1536年生-天正6・1578年没)
綱成の嫡男。元気2・1571年、父の隠居によって玉縄城主を継ぐ。父に劣らぬ武勇を誇り、永禄4・1561年に上杉謙信、永禄12・1569年に武田信玄が玉縄城を攻めた時、いずれも守り抜いている。主君・北条氏康からの信任も篤く、下総(しもうさ。現:千葉県北部)方面の攻略を任されていたが、佐竹氏との戦い(飯沼城)にて戦死。父譲りの外交能力の他、画家としての素養も知られ、『鷹図(個人蔵)』などの作品を遺している。
五代目城主:北条氏舜
(ほうじょう うじとし。生年不詳-天正9・1581年没)
氏繁の長男。父の死後、玉縄城主を継ぐ。ほとんど記録が残っておらず、父の生前(病中)の天正5・1577年に鬼怒川へ遠征したり(対 那須資晴・宇都宮広綱・佐竹義重 戦)、所領内で鳥の捕獲を禁じる法度を公布したことくらいしか逸話が残されていない。
六代目(末代)城主:北条氏勝
(ほうじょう うじかつ。永禄2・1559年生-慶長16・1611年没)
氏繁の次男。兄の死後、玉縄城主を継ぐ。甲斐国(現:山梨県)や下野国(現:栃木県)を歴戦。天正18・1590年の豊臣秀吉による小田原攻めでは伊豆国(現:静岡県伊豆半島)の山中城に籠城するが、あえなく陥落。自害を図るも弟たち(氏成、繁広)の諌めによって捲土重来を図るべく、本拠地である玉縄城に立て籠もる。程なく徳川軍によって包囲され、家康の家臣である松下三郎左衛門(まつした さぶろうざえもん)とその一族である龍寶寺の住職の説得によって降伏。玉縄城を明け渡した後は、徳川家に仕え、下総岩富一万石の領主に封ぜられ(下総岩富藩の祖)、領内の整備や関ヶ原の合戦において功績を上げた。
その後:北条氏重
(ほうじょう うじしげ。文禄4・1595年生-万治元・1658年没)
保科正直(ほしな まさなお)の四男で、氏勝の養子となる。徳川家康の甥(母は家康の異母妹・多劫姫)、大岡忠相(いわゆる大岡越前)の外祖父にあたる。下総岩富藩(一万石)を継いだ後、下野富田藩、遠江(とおとうみ。現:静岡県西部)久野藩、下総関宿藩、駿河(するが。現:静岡県東部)田中藩、遠江掛川藩と転封(てんぽう。領地を変わること)を繰り返し、最終的には掛川藩三万石の大名に成長したものの、五人の子供が全員女子であったため、跡継ぎが絶えたため氏重の死後、改易(かいえき。領地を没収されること)となり、玉縄北条氏は断絶した。
が、氏勝の弟でその養子となっていた繁広(しげひろ。天正4・1576年生-慶長17・1612年)の家系は、その後も旗本として存続した。当初、玉縄落城後に、氏勝と繁広はそれぞれ徳川家に仕えていたが、氏勝に子がいないため、繁広が氏勝に請われてその養子となり、氏勝の跡(下総岩富藩)を継ごうとすると、繁広を快く思わない家臣たちが氏重を養子に迎えて繁広を追い出してしまい、これに激怒した繁広は徳川秀忠にその理不尽を訴え出るも、程なく急死してしまう。その事情を知って不憫に思った家康が、当時4歳であった繁広の嫡男・氏長(うじなが。慶長4・1609年生-寛文10・1670年没)を500俵取の旗本として召抱えた。
その後、氏長は甲州流軍学を修め、北条流兵法の祖となった他、西洋の測量術によって日本の地図技術を改革し、更にその子・氏平(うじひら。寛永14・1637年生-宝永元・1704年年没)は……
北条綱成コスプレ。 posted by (C)角田晶生
……と、いい加減この辺にしておきます。
好きな事になると、どうしてもやめられなくなってしまいますね。
調べるのが楽しくて、どっちが本題か忘れかけてしまいました。
閑話休題(かんわきゅうだい。話を元に戻します)、玉縄城築城五百年祭のイベントは、次回は11月10日(土)、武者行列などのパレードが玉縄地域で実施される予定ですから、奮ってご見学いただけましたら幸いです。
休憩中。 posted by (C)角田晶生
by sasalindou
| 2012-11-04 22:46