2012年 12月 31日
【年末所感】来年もよろしくお願い申し上げます。【笹竜党・角田晶生】 |
(角田晶生・笹竜党 代表)
18歳の時に生家を出てから31歳になるまで、仕事の都合で各地を渡り歩くこと約12年。
帰郷のきっかけは、知人の一言でした。
「お国のための政治活動も大事だけど、故郷のことも顧みて欲しい」
そこには知人の見てきた、鎌倉が語られました。
あえて何が悪い、とか、誰が悪い、とは言いませんが、ただ一つ言えることは。
「人に期待してばかりじゃ、ダメなんだ」
思えば、海上自衛官を任期満了退官したのも、そうした理由でした。
平成21年9月の絶望的な政権交代。史上稀に見る売国政権の誕生を目の当たりにして、「もう、政治を人任せにするのはやめよう」苦々しい思いに、奥歯を噛み締めたものでした。
任期満了後、大湊(青森県むつ市)から帰ったその足で、議席こそないものの、もっとも愛国的な政策を主張し、果敢に国政への挑戦を続けている維新政党・新風に入党。何もかも手探りの中で、色々な活動に参加したり、団体に顔を出したりしていました。
そんな中での、知人の訴えでした。
政治を変えなければ、日本は絶対によくならない。だから志を共にする仲間を助ける。
間違ってはいないけど、その力は鎌倉には届かないのでした。
「じゃあ、自分で旗を揚げよう」
鎌倉市政への挑戦を決意して、帰郷したのが平成23年11月末。翌12月8日に「笹竜党(ささりんどう)」を設立し、神奈川県選挙管理委員会へ届出ました(第8592号)。
これまで家を出てはいても、週末になるとボランティア(鎌倉市シニアリーダーズクラブ、現ジュニアリーダーズクラブ)など諸活動のために鎌倉に帰ってきてはいたのですが、いざ暮らしてみると、調べてみると、変えて行きたい鎌倉の現状が、少しずつ見えて来ました。
仕事と政治活動の両立や手際の悪さなど、いざ自分がリーダーとなってやってみると、なかなか計画通りには行かないもので、この一年間は正しく暗中模索の一言に尽きましたが、それでも常に全力で臨んできたことだけは、胸を張って自慢することができます。
私より優秀な人はたくさんいます。
私より知識豊富な人も、大勢いるでしょう。
私より行動力のある人も、いくらだっています。
でも、私より「鎌倉」を愛している人は、そうざらにいるもんじゃないと自負しています。
鎌倉が末永く鎌倉らしくあること。
鎌倉という「ブランド」を切り売りして、目先のカネに換えてしまうような行政は、身体を張って止めなければなりません(行政すべてがそうだと言っている訳ではありません)。
かつて「御谷騒動」で、市民がブルドーザーの前に立ちはだかったあの「勇気」「意志」をこそ、私たちは受け継ぎ、体現しなければならないのです。
そして、現在の顔ぶれに、その意志を持った方が、いったい何人いるでしょうか?
勝手に誰かに期待して、思い通りにならないと文句を言うだけの人生より、限りある身の力試さんと、市政挑戦の名乗りを上げる人生を、角田晶生は選びとります。
全力で生きて、満足して死ぬために。
「鎌倉、好きですか?」
鎌倉には、かつて武士たちが「一所懸命(いっしょけんめい。一つ所に命を懸ける)」と心がけたように、命を懸けるだけの価値がありますか?
ただ二文字「好き」という、実に軽やかな響きの中に、その意志を込めました。
私は、鎌倉が好きです。
皆さんは、いかがでしょうか?
少し大袈裟に思われるやも知れませんが、これでも海上自衛官の端くれ(現在は予備自衛官)。頭の片隅には常に「死ぬ」ことがあります。
かつて大東亜戦争において尊い命を奉げられた英霊たちは、常に故郷を思い、大切な人たちを守るために戦ったのだと思います。
彼らが命を賭けて守り、受け継いで下さった故郷を、今平和に暮らしている私たちが損なってしまうことは、大変な冒涜であると言えます。
彼らのこよなく愛した美しい山河や心優しい日本人のあり方を、私たちは取り戻す必要があるのです。
先日、国政では「日本を、取り戻す。」と標榜する政党が政権の座に返り咲きましたが、取り戻すべき日本は、永田町のみならず、日本全国津々浦々にあるのです。
私たちは大地に根を張り、しっかりと立って故郷を、祖国を守る闘いに邁進して参ります。
どうか平成25年も、変わらぬご厚情を賜りますよう、よろしくお願い申し上げまして、年末のご挨拶とさせて頂きます。
皇紀2672・平成24年12月31日
鎌倉笹竜党 代表
今年今月今日討死 角田晶生
18歳の時に生家を出てから31歳になるまで、仕事の都合で各地を渡り歩くこと約12年。
帰郷のきっかけは、知人の一言でした。
「お国のための政治活動も大事だけど、故郷のことも顧みて欲しい」
そこには知人の見てきた、鎌倉が語られました。
あえて何が悪い、とか、誰が悪い、とは言いませんが、ただ一つ言えることは。
「人に期待してばかりじゃ、ダメなんだ」
思えば、海上自衛官を任期満了退官したのも、そうした理由でした。
平成21年9月の絶望的な政権交代。史上稀に見る売国政権の誕生を目の当たりにして、「もう、政治を人任せにするのはやめよう」苦々しい思いに、奥歯を噛み締めたものでした。
任期満了後、大湊(青森県むつ市)から帰ったその足で、議席こそないものの、もっとも愛国的な政策を主張し、果敢に国政への挑戦を続けている維新政党・新風に入党。何もかも手探りの中で、色々な活動に参加したり、団体に顔を出したりしていました。
そんな中での、知人の訴えでした。
政治を変えなければ、日本は絶対によくならない。だから志を共にする仲間を助ける。
間違ってはいないけど、その力は鎌倉には届かないのでした。
「じゃあ、自分で旗を揚げよう」
鎌倉市政への挑戦を決意して、帰郷したのが平成23年11月末。翌12月8日に「笹竜党(ささりんどう)」を設立し、神奈川県選挙管理委員会へ届出ました(第8592号)。
これまで家を出てはいても、週末になるとボランティア(鎌倉市シニアリーダーズクラブ、現ジュニアリーダーズクラブ)など諸活動のために鎌倉に帰ってきてはいたのですが、いざ暮らしてみると、調べてみると、変えて行きたい鎌倉の現状が、少しずつ見えて来ました。
仕事と政治活動の両立や手際の悪さなど、いざ自分がリーダーとなってやってみると、なかなか計画通りには行かないもので、この一年間は正しく暗中模索の一言に尽きましたが、それでも常に全力で臨んできたことだけは、胸を張って自慢することができます。
私より優秀な人はたくさんいます。
私より知識豊富な人も、大勢いるでしょう。
私より行動力のある人も、いくらだっています。
でも、私より「鎌倉」を愛している人は、そうざらにいるもんじゃないと自負しています。
鎌倉が末永く鎌倉らしくあること。
鎌倉という「ブランド」を切り売りして、目先のカネに換えてしまうような行政は、身体を張って止めなければなりません(行政すべてがそうだと言っている訳ではありません)。
かつて「御谷騒動」で、市民がブルドーザーの前に立ちはだかったあの「勇気」「意志」をこそ、私たちは受け継ぎ、体現しなければならないのです。
そして、現在の顔ぶれに、その意志を持った方が、いったい何人いるでしょうか?
勝手に誰かに期待して、思い通りにならないと文句を言うだけの人生より、限りある身の力試さんと、市政挑戦の名乗りを上げる人生を、角田晶生は選びとります。
全力で生きて、満足して死ぬために。
「鎌倉、好きですか?」
鎌倉には、かつて武士たちが「一所懸命(いっしょけんめい。一つ所に命を懸ける)」と心がけたように、命を懸けるだけの価値がありますか?
ただ二文字「好き」という、実に軽やかな響きの中に、その意志を込めました。
私は、鎌倉が好きです。
皆さんは、いかがでしょうか?
少し大袈裟に思われるやも知れませんが、これでも海上自衛官の端くれ(現在は予備自衛官)。頭の片隅には常に「死ぬ」ことがあります。
かつて大東亜戦争において尊い命を奉げられた英霊たちは、常に故郷を思い、大切な人たちを守るために戦ったのだと思います。
彼らが命を賭けて守り、受け継いで下さった故郷を、今平和に暮らしている私たちが損なってしまうことは、大変な冒涜であると言えます。
彼らのこよなく愛した美しい山河や心優しい日本人のあり方を、私たちは取り戻す必要があるのです。
先日、国政では「日本を、取り戻す。」と標榜する政党が政権の座に返り咲きましたが、取り戻すべき日本は、永田町のみならず、日本全国津々浦々にあるのです。
私たちは大地に根を張り、しっかりと立って故郷を、祖国を守る闘いに邁進して参ります。
どうか平成25年も、変わらぬご厚情を賜りますよう、よろしくお願い申し上げまして、年末のご挨拶とさせて頂きます。
皇紀2672・平成24年12月31日
鎌倉笹竜党 代表
今年今月今日討死 角田晶生
by sasalindou
| 2012-12-31 20:15