2014年 03月 25日
【神奈川縣護國神社】精神の継承・後に続く者を信ず。【角田晶生】 |
(角田晶生 つのだあきお・神奈川縣護國神社 副祝)
先刻、神奈川縣護國神社の崇敬同志とこんな話をしました。
同志「神奈川縣護國神社を再建するのはいいけど、それが途中で絶えてしまっては却って申し訳ない(あるいは不敬)のではないか。やはり、盤石な運営基盤を構築してから再建するべきではないのか(大意)」
なるほど、いわゆる「触らぬ神に祟りなし」という考えだと思われます。
しかし、それは杞憂であると考えます。
どこかの神社だったか、あるいは神社庁の発行だったか失念しましたが、「神棚をお祀りしましょう」といった主旨のチラシの中に、こんなQ&A(大意)があったと記憶しています。
Q「神棚をお祀りしても、途中でおろそかにしてしまうと、祟られたりするのではないか」
A「心配いりません。今あなたが手を合わせようと思ったその気持ちを、神様は喜ばれます。まずは神棚をお祀りする事が大切で、途中で忘れてしまっても、また思い出せばいいのです」
※なにぶん記憶によるため、もし現物を見つけたら、改めて紹介したいと思います。
家庭のまつりQ&A — 宮城県神社庁
http://miyagi-jinjacho.or.jp/katei-maturi/katei-qa.html
※ご参考までに。
こちらでは「大切にする心があれば無礼になりません。まつらないのが最もおろそかにすることなのです。」との事です。
民間有志による神社の再建と、神棚のお祀りは一緒くたにし難いものですが、人の手から手へ信仰を継承するという真心について、何ら異なりません。
そもそも、誰がどこで拝もうと神様は神様であり、例えば伊勢の神宮に鎮座まします天照大神と、我が家の神棚にいらっしゃる神宮大麻(お伊勢さまの御札)を違うもの(主に神宮が尊く、神棚が卑しい等)と見なす考えこそ、もっとも神道の精神から逸脱していると言わざるを得ません。
※神様は依り代(よりしろ。宿り先)を通して、どこにでも信じる者と共にいらっしゃる、と神道では考えられています。
が、少し話が逸れました。閑話休題(かんわきゅうだい・話を元に戻すこと)。
確かに、いくら私たちの世代が神奈川縣護國神社を再創建したところで、私たちが死んだ後、その志を受け継いでくれる者がいなければ、その信仰が絶えてしまうことは言うまでもありません。
さりとて、誰がどんな権威・権力をもって神奈川縣護國神社にお墨付きを下さろうとも、盛者必衰(しょうじゃひっすい。力ある者は必ず衰えること)の理にある通り、それで未来永劫の保障が得られる訳ではありません。
言うまでもなく、信仰の核は精神です。
精神を次世代に継承するためには、今生きている私たちが本気の振る舞いを示す他にありません。
かつて無謀とも言える大東亜戦争を闘い抜いた歴史を学び、精神に触れたからこそ、英霊たち、先人たちが守り抜いて下さった日本を大切にする私たちがいるように、私たちもまた、精神を次世代に継承しなくてはなりません。
千年の信仰も、一日の参拝から。
「後に続く者を信ず」
軍神・若林東一の言葉ですが、堂々と次世代に伝えられるよう、私たちは最善を尽くして参ります。
公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会
http://www.tokkotai.or.jp/shinjyo/atoni_tuzukuwo_shinzu.html
先刻、神奈川縣護國神社の崇敬同志とこんな話をしました。
同志「神奈川縣護國神社を再建するのはいいけど、それが途中で絶えてしまっては却って申し訳ない(あるいは不敬)のではないか。やはり、盤石な運営基盤を構築してから再建するべきではないのか(大意)」
なるほど、いわゆる「触らぬ神に祟りなし」という考えだと思われます。
しかし、それは杞憂であると考えます。
どこかの神社だったか、あるいは神社庁の発行だったか失念しましたが、「神棚をお祀りしましょう」といった主旨のチラシの中に、こんなQ&A(大意)があったと記憶しています。
Q「神棚をお祀りしても、途中でおろそかにしてしまうと、祟られたりするのではないか」
A「心配いりません。今あなたが手を合わせようと思ったその気持ちを、神様は喜ばれます。まずは神棚をお祀りする事が大切で、途中で忘れてしまっても、また思い出せばいいのです」
※なにぶん記憶によるため、もし現物を見つけたら、改めて紹介したいと思います。
家庭のまつりQ&A — 宮城県神社庁
http://miyagi-jinjacho.or.jp/katei-maturi/katei-qa.html
※ご参考までに。
こちらでは「大切にする心があれば無礼になりません。まつらないのが最もおろそかにすることなのです。」との事です。
民間有志による神社の再建と、神棚のお祀りは一緒くたにし難いものですが、人の手から手へ信仰を継承するという真心について、何ら異なりません。
そもそも、誰がどこで拝もうと神様は神様であり、例えば伊勢の神宮に鎮座まします天照大神と、我が家の神棚にいらっしゃる神宮大麻(お伊勢さまの御札)を違うもの(主に神宮が尊く、神棚が卑しい等)と見なす考えこそ、もっとも神道の精神から逸脱していると言わざるを得ません。
※神様は依り代(よりしろ。宿り先)を通して、どこにでも信じる者と共にいらっしゃる、と神道では考えられています。
が、少し話が逸れました。閑話休題(かんわきゅうだい・話を元に戻すこと)。
確かに、いくら私たちの世代が神奈川縣護國神社を再創建したところで、私たちが死んだ後、その志を受け継いでくれる者がいなければ、その信仰が絶えてしまうことは言うまでもありません。
さりとて、誰がどんな権威・権力をもって神奈川縣護國神社にお墨付きを下さろうとも、盛者必衰(しょうじゃひっすい。力ある者は必ず衰えること)の理にある通り、それで未来永劫の保障が得られる訳ではありません。
言うまでもなく、信仰の核は精神です。
精神を次世代に継承するためには、今生きている私たちが本気の振る舞いを示す他にありません。
かつて無謀とも言える大東亜戦争を闘い抜いた歴史を学び、精神に触れたからこそ、英霊たち、先人たちが守り抜いて下さった日本を大切にする私たちがいるように、私たちもまた、精神を次世代に継承しなくてはなりません。
千年の信仰も、一日の参拝から。
「後に続く者を信ず」
軍神・若林東一の言葉ですが、堂々と次世代に伝えられるよう、私たちは最善を尽くして参ります。
公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会
http://www.tokkotai.or.jp/shinjyo/atoni_tuzukuwo_shinzu.html
by sasalindou
| 2014-03-25 23:04